昭和41年09月17日 朝の御理解
今朝からもお湿りのあっておりますことを、心から繰り返し繰り返し、お礼を申させて頂いておりますと、もう限りない一心の深さ広さと、その滋味とでも申しましょうか、の神様のお心に拝し奉っての喜びが、限りなく心の中に、広がってまいります。昨日の総会、まあ本当に何とも言えん、好時候の中にああして、総会が委員会が終らして頂いて、夕方からぼちぼち振り出しました、お湿りが今朝に続いております。
もう、お湿りそのものも有り難いけれども、そうした神様のご守護の中に降り照るのことから一切のことの上にもう本当に私ども本位に天地が動いておって下さるなというような、お働きの中にあるということ。今朝のおしめりを、ことについてお礼を申させて頂いておると、そういうような気が致します。ここに少しばかりの自分の思うようにならないことがあったり、または痛い苦しいがありましても。
、本当に今日の例えば、お湿りならお湿りということに対して、心からお礼が申し上げられて、その喜びが、他の難儀に感ずるような事柄を、もう包んでしまうように、こういう間違いのない、天地の親神様のお働きの中に、痛いかゆいもあることであり、または、自分の思うようにならないように、思っておるんだけれども、こうした神様のお働きの中にあっておることなのであるから、というのがいよいよ、有り難うならせて頂くもとだとこう思うのですけれど。
それなら、例えば今日のおしめりなんかはお百姓さんにとって、まあ大変な、まあ本当に慈雨、お恵みの雨として感じられることでございましょうけれど、なら今日、外で仕事なら仕事でもしなければならない人のためには、そうでもないかもしれません、ね。であるけれども、お道の信心さして頂いおって、もう降ってもおかげであり、照ってもおかげであるから降ったら降ったでお礼を申じあげさしてもらい、照ったら照ったでお礼を申さしてもらうと、というだけでは今日、私が申しております、ね、
このお湿りのことを、心からお礼を申さして頂いておると、限りない有り難さというか、喜びというものが、心いっぱいに広がっていく。そこに、思うようになったりならなかったりと、言う様な事柄でも、その喜びだけで、こう包んでしまうような、有り難さに浸ることができる。それはどういうようなわけだろうかと。苦しみ難儀とまた、自分の思うようにならないという、腹立たしさがです、とてもお湿りのことなんかは全然、有り難いとも思えないと。
心配なことの方がいっぱいで、こんなに有り難い、おかげを頂いておることに対しては、もうそれこそ、難儀が有り難いものを、包んでしまっておるような、反対なことになって、おるようなことはないだろうか。それは、どこにそういうふうに、開き違いが出来て来るのだろうかと。それは、先生は喜びがそれだけ大きいから、ね、んならどうしてそんなに喜びが、誰よりもなら大きいのであろうかと。皆さん、こう言う様なことを考えられた事はないでしょうか。
お道の信心を頂いておるということが有り難いということ、ね。しかも、そのお道の信心を頂いておることが有り難いということが、お願いをする、おかげを頂く、自分の思うようになったという時だけが、有り難いのであって、普通は、ね、お参りはしておるけれども、お道の信心を頂いておるということに心から有り難いというものがわかないといったようなことはないでしょうか、何故なのか。
私は思うですね。お道の信心を頂いておるということが、有り難いなあということはです、ね、お道の信心により、教祖の神様のご信心によって、私どもが、第一に天地の大御恩徳というものを、分からして頂いたということ。今までは知らなかった。よし信心の薄い時には、話には聞いておったけれども、ご恩徳をご恩徳と感じきらなかった。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心と、こう仰るが、ね、第一の道理は天地の道理なのである。
天地の道理に背かんように、天地の道理に即応した生活が出来ておると言う事が有り難い。私はね、今日私が皆さんに申しております、私が今日のお湿りの音を聞きながら、ご祈念さして頂きながら、もう限りない喜びが、もう私の心にいっぱいに広がって、例えば痛い痒い位なことは、いわゆる自分の思うようにならないと、言った様な事柄がもうみんな消えてなくなっていくように、いわばおし包んでしまうように。
例えば今日のお湿りの事を、お礼ば申さして頂いておると、そういう心がすると。私信心を頂いておる者、いわゆる信心者の喜びという、言わばお道の信心を、頂いておる者の喜びというものは、それだとこう思う。そういう喜びがなら銘々の心にどうしてわかんのかと。ああしるしいお天気になった。今日外へ出ろうと思いよるのに雨が降った。にくじな雨だと。いいやお百姓しておっても今日の、本当にお湿りは慈雨のような、お恵みの雨だと分かっておっても、その事から心からお礼が申し上げられない。
そして、難儀なことだけを感じ、不平が出、不足が出る。お道の信心を頂いておっても有り難いと言うておるけれども、何故、こういう有り難いことが、有り難いとして分からんのかと言うとです、ね、自分の思うように、おかげを頂いた時だけが、有り難いというような信心だ。私は信心を頂いておる、有り難さというものはです、まず第一に天地の大恩を分からして下さったと、天地の道理を分からして下さったと、ね、
だけではない、その道理を、分からして下さったおかげでです、道理に背かない、道理に即応した生活ができておるということが有り難い。それがお道の信心を頂いておる第一の有り難さであると言うようなです、おかげを頂いておかなければ、例えば今日のおしめりのことに対してお礼を申し上げてよったら、お礼を申し上げるその心ばっかりが心の中に広がって、不平不足といったようなものは、消えてなくなる、いやそれで包んでしまうというようなおかげにはならないということなんです、ね。
いかに信心しておっても道理に基づいた生活ができていなかったら、そういう喜びは許されませんですね。天地の道理に基づいた生活。どうですか、皆さん。天地の道理に基づいた生活ができるようになったということがです、お道の信心を頂くようになって、また信心を頂いておるということが有り難いというのは、もう間違いのない道理に合うた生活をさして頂いておるということが一番の有り難いのである、ね。
そこが分からして頂く時に初めてです、ね、今まで感じきらなかった、お湿りならお湿りということに対して、でも心からお礼が申し上げれるのですよ。勿論そこには天地が自由になるというほどに、まずまるきり私共のために天地が動いておって下さる様な、おかげも頂けれるのですよ。ね。昨日は、あのようなお天気のいいおかげを頂いて、そして、今日のこのお湿り、ね。そこんところだけが有り難いのじゃない。
それを心から有り難いと解らして頂くのは、私共お道の信心を頂いておったと言う事が、有り難いという事がです、お願いをしたりおかげを頂いたりする事だけが、有り難いから、お道の信心頂いておって、よかったというのでは駄目だという事。お道の信心によってです、教祖の神様のあられ方生きられ方、それはどこまでも天地の、ご恩徳に対し奉っての、神恩報謝の生活をなさった。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をなさった。そして私共にその事を教えておって下さった。
我情我欲の生活から天地の大恩に対して、神恩報謝の生活をさして貰い、我情我欲の生活が段々段々影を薄めまして、しかも人間は万物の霊長であるから万物を見て道理に合う信心。第一に天地の大道理に合うところの、毎日をこうやって過ごさして頂いておるという事が、有り難いのであり、信心を頂いた第一の喜びであるということ。そういう私は、お道の信心の根本的な所が、自分の身に付いていきよらなければです、今日のお湿りに対して、心から有り難いなあという事には、なってこないと思う。
それを有り難いなあと思う心がです、いわゆる難儀と思うておった難儀でも、または自分の思うようにならないと、思うておったような事でも、腹立たしいと思うておったような事でも、みんなおかげとして、これを押し包んでしまうような、おかげになってくるのですよ。そういう有り難いがまた、次のおかげを生んでいくのですよ。皆さん、お道の信心を頂いておるということが、有り難いということは、ね、毎日お参りをしてお取次を頂いて、お願いをしておかげを受けるから有り難い。
こんな信心が例えば、10年20年30年続いたって駄目ですよ。お道の信心によって真の生き方を覚えた、道理に合うところの道理に即応したところの、生活が出来る様になったということが、有り難いと分からしてもらう。そういう信心になる時にです、もう期せずしてお湿りならお湿りのあっておることが、有り難いなあ、今日お天気であるならお天気であるということが、有り難いなあと。
そのことだけでも繰り返し、お礼申させてもらいよると、有り難いなあというものが有り難い有り難いが、心いっぱいに広がって、難儀に感じておったことでも、よしもうそげなことは問題ではなくなってしまうんですよ。だからまたおかげも頂くんですよ。いかに私共信心さして頂く者がです、ね、教えを本当に頂かなければ、天地の道理も分からない、ね。道理に反した思い方、道理に反した行いというものはです。
なるほどおかげは頂いても、天地の例えば、降り照りのことに対してでも、心からお礼が申し上げられない、言わばそういうようなことが、原因するのだと私は思う。皆さん天地の教祖の神様のご信心を頂きますとです、まずは大天地の、ね、ご恩徳と大恩というものを分からしてもらう。同時に道理をわからしてもらう。しかも天地の道理を分からしてもらう。その天地の道理に即応した、生き方にならせて頂こうと、一家中がそういうあり方にならして頂こうというその生き方、そういう願いをもっての信心。
はあ、このことば、お願いせなんけんいっちょ、お参りせにゃんと言った様な信心じゃなくてです、ね、そういう生き方が愈々出来ていくということが有り難い。そこに神恩報謝の心、いわゆるお礼参拝さしてもらわなければ、おられないというような信心、ね。そういう信心が基礎、土台になってまいります時にです、私が今朝から感じるようにです、お湿りの事を、お礼申させて頂きよると、もうその事だけで有り難い。
もう神様の本当に間違いない働きの中に、しかもこうしたもうお恵みのお湿りを、私共の上に送って下さる、その神様のお心を思うたら、有り難うして有り難うして、他の問題はひとつも問題でなくなってくる。心配になっておったことも、その心配が段々なくなってしもうて、いや却ってお礼を申し上げなければならないと、言う様なことに心の中が穏やかに豊かに、有り難いものになってくる。それこそ地味豊かな心というものが頂ける。そういう心にまた次のおかげが頂けん筈がないでしょうが。
どうぞ皆さん、お道の信心を頂いておることはどこが有り難いのですか、椛目にご縁を頂いて毎日お参りしよることは、何が有り難いからそげんお参りしなさるですかと、もし問われた時にです、何と言うても間違いのない生活ができること、天地の道理に即応した生活ができるということが第一の有り難さ、そこを教えてもらえるということが有り難いということがです、分かって、私はこなければですね、今日、私が申しますような有り難さというものは頂けないとこう思う。
皆さん、皆さんはお願いをしてそのことが成就したというようなお願いやらのおかげはですね、浅いおかげです。また喜びというても必ずこれなら薄うなります。いや、薄うなるだけじゃなかばってん、なくなります。いわゆる喉元通れば熱さを忘れるようになりますて。ですから根本的なところ、ね。その信心によって、良い信心生活が本当にできるということは、ね、天地の大道理に合うたところの生活ができるようになっていくということだと私は思うんです。
それが初めの間はぎこちない。それが段々だんだん、自然に自分のものになっていくということが有り難い。そこが分からなければお湿りならおしめりに対してもです、もう心一杯で、そのことだけでお礼を申さして頂いておればです、他のことがおかげになっていくようなおかげに繋がってこない。そういうおかげは願うてからこのことばどうぞというおかげなんかとは全然、だためが違うおかげなんですよ、ね。
それはもう、お百姓さんたちが、はあ、ここで一雨欲しいなあと、言うておるところにお湿りを頂きますとです、そのお湿りが有り難いだけではなくて、そのならお野菜ならお野菜がです、ね、それこそ、生き生きと成長してくるおかげ。もうここには、成長を願わんでいいでしょうが。その生育を見て成長を見てです、有り難いなあ、神様が作って下さるんだなあと。
有り難いなあというものが、それに自ずと伴うて来る様なもんです、ね。どうぞ野菜がたとえば立派に出来ます様にという願いだけではなくてです、天地のそうした働きがです、お野菜の上にならお野菜の上に現れてくると、そこにお野菜が見事に出来ていくようにです、おかげが見事に育っていくようなおかげをです、頂かなければいけませんですね。